最初からうまくいったことなんか
一つもない。
あの失敗があるから、今がある。
18の試行錯誤ヒストリー。
「負け」から始まった
教育の会社をやっていますというと、
さぞかし勉強ができたエリートだろうと思われるが、僕は違った。
高知生まれ、高知育ち。いつも傷だらけの野球少年。
床屋に行くと「こがに傷ばかりの頭は刈れんよ」と言われた。
高校は、甲子園準優勝2回の名門校に進学。
疲労骨折は骨折にカウントされないくらいのスパルタだった。
甲子園を目指すためなら当然だと、どんな練習にも耐えた。
高校最後の夏、県予選敗退。すべてが終わったと思った。
僕の挑戦の歴史は、「負け」から始まっている。
19歳、格差にぶつかる
甲子園の夢果てたあと、勉強に奮起!
なんか、まったくできず、大学受験は不合格。
一浪して、なんとか東京の大学に進学できた。
時代はバブル真っ盛り。外車を乗り回す
同級生がいたりして驚いた。なんじゃこりゃ。
高知にいた頃はわからなかったが、みんな平等なんかじゃない。
世の中、格差だらけだ。田舎から出てきたばかりの
19歳の目に写った東京。このままのんびりは生きられない。
焦りと危機感は、闘志に変わった。
凡人は、まねぶ
1989年、住友銀行に入行。2年目で営業への異動の辞令。
正直、営業なんか嫌だった。人との会話もぎこちない
自分が営業にむいているとは思えなかったからだ。
とんだやらかしをしたのは2年目の冬のこと。
ビル建て替えのための4億円の融資を依頼されていたのだが、
審査書類を預かったまま放置。慌てて申請したら、融資不可。
嫌な予感がして現場に走ると、ビルは既に取り壊されていた。
人生で覚えのないくらい、こっぴどく叱られた。地獄だった。
プライドがどうとか言える立場じゃない。やるしかない。
できる人の話し方、動き方、準備の仕方、
出社時間まで、とにかくまねた。
不思議なことに、営業成績があがりはじめた。
銀行員、起業する
まわりからは馬鹿だと言われた。
バブル崩壊。先行き不透明な時代に、
なぜわざわざ安定を手放すのかと。
母親も高知から上京。辞めてはだめだと諭された。
でも、心は決まっていた。教育事業で起業する。
「教育業界はすでに成熟産業、厳しいぞ」と周囲からは不安の声も。
そうじゃない。教育は景気に影響されない豊かな産業。
ただ事業モデルが古くて停滞しているだけ。
新しいイノベーションさえ起こせばまだまだ伸びる。
営業電話、灰色の日々
家庭教師事業に注目した理由の一つに初期投資の問題があった。
予備校や学習塾は、施設ビジネス。体力のないうちは難しい。
正社員として家庭教師の会社に入社して、集客の方法を学んだ。
営業、営業、とにかく営業。電話漬けの日々。
ほどなく辞めて、自社の営業開始。
2期目で1億円、3期目で3億円に届く勢い。
電話をかければかけるほど、売上は伸びた。
しかし、当時はリストからひたすら電話をかけまくるプッシュ型営業。
「こんなしんどい仕事じゃ、続かないぞ」
池袋の雑居ビル、灰色の受話器を握りしめていた。
ある日突然コンサルタントに
このままでは未来がない。とにかく、いろんな新しいことをやった。
塾や予備校に凄腕の先生を派遣する派遣業。
外国人の先生を集めて、英会話講師派遣もやった。
集客に悩む学習塾をターゲットにしたコンサル業も開始。
最初のセミナーは社長の僕がやった。正直怖かったが、
社員の手前、ビビる姿は見せられない。後に引き継いだのは、
入社2年目の新卒社員。逃げないようにと会場を先に抑えた。
キャンセル料がかかるから、やめるわけにはいかないぞと。
最初は足が震えていたが、回数をこなすごとに饒舌に。
人間はやろうと思えば何でもできるのかもしれない。
未来に光が見えた。
コンサルティング事業で得た学び
コンサル事業をはじめたおかげで、いろんな学びを得た。
集客に苦戦している塾は、教え方が悪いわけでも、
成果を出していないわけでもなかった。
宣伝が下手だったり営業が下手なだけ。
致命的なのは「よいサービスを提供すれば売れる」と
本気で思っていたこと。いくら良いものを提供しても、
伝わらないと売れっこない。それが僕たちの一貫した主張だった。
ちょっと待て。偉そうに言う、うちの会社はどうなんだ?
それはブーメランのように、
常に自社の経営に突き刺さる問いでもあった。
インターネットの時代到来
自社のHPを持っているような塾は少ない時代。
HPや広告の制作まで請け負い、集客体制を支援した。
会員は4万5000社を突破。全国に顧客を抱えて右肩上がりだった。
2000年代中盤は、ものすごい勢いでパソコンが普及し
インターネットのインフラ整備が進んだ時代だった。
「もしかして、今やっていること、全部ネットに切り替わるのでは?」
まだスマホもない。オンライン教育という言葉もない。
何かが変わる予感だけが脳裏をよぎった。
宣伝広告も自分で考える
新卒採用をはじめて、学んだことがある。ピカピカの優秀な人材に、
昔ながらの泥臭い電話営業をさせたら、続かないに決まっている。
だから、プッシュ型の営業は1年までにしようと決めた。
お客様が電話をかけてきてくれる反響型の営業を目指そうと。
社員から「そうできるといいですね。社長、やり方しってるんですか?」
と言われた。もちろん知らない。そこで気合を入れて、1年間勉強した。
セミナーに出る。本を読む。手当たり次第、何でもやった。必死だった。
中でもDRM(ダイレクト・レスポンス・マーケティング)の考え方は
勉強になった。しかし、男臭い表現が多かったからか、
お母さんウケがよくなかった。受験生の子どもを持つお母さんの
繊細な心を一生懸命想像した。
自分にはセンスがないとか悩むゆとりはない。社運がかかっている。
反響の電話があると嬉しいというより、ホッとした。
40歳の新人コピーライター、遅咲きで不格好なデビューだった。
好調な事業をたたむ
「なぜやめるんですか」「うちの塾を見捨てるんですか」
コンサル事業をたたむと会員に報告した後、いろんな声が届いた。
これからの未来のために、真新しい事業をつくる。
そのためには、うちに他の事業を運営する余力はない。
苦渋の決断だった。
何をやるかは、まだぼんやりしていたものの
2010年、家庭教師事業をのぞくすべての事業を完全撤退。
インターネットを使った新事業をつくろうと、見切り発射のスタート。
数億円の売上はなくなったが、未来は明るい。そう思っていた。
僕は思い切って社名を変更することにした。
「え、急に社名変更ですか?」と社員は困惑していたが、
新社名には未知への冒険心を込めた。僕たちは前に進むしかないのだから。
早すぎたオンライン家庭教師
オンライン家庭教師の着想を得たのは、2009年頃。
その頃は韓国の教育現場を視察して刺激受けた時期でもあった。
電子教科書で学ぶ子どもたち。ボタンをポチッと押すと、
アニメの先生が楽しげに解説をはじめてくれる。え、先生要らなくなる?
2015年には日本にも電子教科書が導入されるだろうと予想していたが
大ハズレに終わった。オンライン教育がやってくるぞと、
独自のシステム開発に4000万円の投資。銀行からは、厳しく言われた。
こんな意味のわからないものを支援できるわけがないと。
僕としては、売れると思った時に始めるのでは遅いと。
資金力と体制で大手に劣るからこそ、先手を打たなきゃと焦りがあった。
いろいろと頑張ったものの、結局、一般家庭のデバイスの問題や、
インターネットの速度の問題で、今は得策ではないという判断に。
e-ラーニングのスタディ・タウン
2012年、e-ラーニングのスタディ・タウンを立ち上げた。
中学受験の赤本を動画解説する「10倍わかる過去問」シリーズ。
大学受験の「9割取れるセンター現代文」など、
確実に成果の上がる優れた学習コンテンツだけを厳選した
オンライン上のプラットフォームだ。
「なぜ赤本?地味じゃないですか?」と社員は怪訝な顔。
ライブ配信は、本物のライブにかなわないように、
教育においても、映像化するとどうしても価値は落ちる。
だから逆をやろうと思った。アナログを映像化して、
価値を高めようと。業界のアナログの最たるものが、赤本だった。
50年も同じスタイルで売っているが、解説は短いし、わかりにくい。
不満はあるが、買うしかないからみんな買う。ここに切り込んだ。
思いついたらすぐに「ビッグカメラでカメラ買って来て」と社員に伝えて、そこから猛スピードでコンテンツを作り上げた。
首都圏を中心に私立中学100校以上の赤本5年分を動画解説。
3月には合格者の喜びの声が続々届いた。
更新性に着目、時事問題シリーズ
オンラインの良さとは何か。移動中であれ、食事中であれ、
どんな時でもどんな場所でも利用できることが挙げられるが
もうひとつ大きな特徴がある。それは、更新性。
ひらめいたのが、時事問題。中学入試の社会・理科で必ず出題され、
合計30点の配点があるにも関わらず、
直前まで新しいニュースが更新され続けてしまうため、
事前の対策ができないとみんながあきらめていたジャンルだったのだ。
スタディ・タウンならできる。日々起こる新しいニュースをキャッチ、
解説して随時アップし続けた。
「朝起きると更新されていて、楽しみでした」
「朝食を食べながら、親と一緒に視聴しました」
「新聞を読んでも解けなかったけど、解き方まで教えてもらえる」
受験直前の時間がない家族でも、
合間で気軽にインプットできると大好評。
「中学入試に出る時事問題シリーズ」は、
インターネットの更新性という特徴を活用した商品第一号となった。
オンライン家庭教師、再起
オンライン家庭教師、2回目のチャレンジは突然やってきた。
元社員のカツヤくんと飲んだのは、忘れもしない2017年4月のこと。
カツヤくんは独立して社長になっていた。
「なんでオンライン家庭教師やらないんですか?」
「8年前にやろうとして、とりやめているので、気が乗らないんだ」
「え、成功しない理由どこにもないのに?
絶対にやったほうがいいですよ!」
翌朝、カツヤくんから「やりますよね?」と念押しのメール。
確かに二日酔いの頭で考えても、失敗する理由はどこにもない。
集客も、HPも、営業も、今やっていることの延長線上でできる。
2〜3日悩みに悩んで決心した。オンライン家庭教師事業をはじめると。
カツヤくんに連絡すると、彼は何も覚えていなかった(笑)。
スタディ・タウン終了
スタディ・タウンの利用者数は年々増えた。しかし課題も多かった。
小さな会社にとって、年間何百という動画を自社で制作することも、
毎年入れ替わる顧客層を開拓し販売活動もおこなうことも
負荷が大きかった。一方で、2017年にスタートさせた
オンライン家庭教師の数字がじわじわ伸びはじめた。
通信環境も2012年とはまったく違う。これはチャンスかもしれない。
2019年、スタディ・タウンをやめて、
オンライン家庭教師にリソースを注ぐことに決めた。
5年でやめるなんて、まわりからみたら失敗ととられるかもしれない。
でも、うちはe-ラーニングを流行らせることに
命を注いでいるわけじゃない。
教育格差を是正する。大きなミッションのためには、
次のステージに進まなくては。スタディ・タウン。
これまでとまったく違う事業で、コンテンツづくりも、
プロモーションとは段違いで難しかった。
その分、会社の筋肉がついたと思う。
事業はなくなるが、スタディ・タウンで培った力は消えない。
たくさんのありがとうの気持ちを込めて、5年の幕を閉じました。
バンザンは蕃山であり万山
『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』の船乗りの名前から
名付けた新しい社名。これからの挑戦にふさわしい社名にした。
挑戦をテーマにして走ってきたこの10年だったが、
教育格差など日本の教育問題を真剣に考えるようになったことで
教育に根ざした社名を掲げたいと思うようになった。
カタカナの偉人の名前をつけるのは、なんだかしっくりこない。
そこで平安時代から昭和初期まで教育の歴史をさかのぼり、
手がかりを求めた。そして、ひとつの名前に辿り着いた。
新社名は株式会社バンザン。バンザンとは、蕃山であり、万山。
「庶民の暮らしの向上なくして繁栄なし。領民の幸福こそ国の基本」
という経世済民思想を確立した、
江戸の著名な陽明学者である熊澤蕃山。
彼のように人々にあまねく教育機会を提供する姿勢を大事にしたい。
また、学びの山は、万の山を登る喜びに似ている。
登る喜びを世の中に届けたいという想いを燃やし続けたい。
2019年7月、新しい歩みがはじまりました。
オンライン家庭教師事業、加速
オンライン家庭教師で苦労したのは、動画システム。
自社であれこれ苦戦しながら作っていたものの、
2018年にアメリカのZOOM社のサービスに切り替えた。
仕様を細かく確認するために、シリコンバレーの本社にも飛んだ。
コロナ禍のリモートワークで一躍有名になった会社だが、
当時はまだ無名。
使っている企業も少なかった。日本国内ZOOMアカウント数の
ランキングでは、楽天などにまじって、第三位にバンザンの名前が。
開始当時は、社員も会員も「ZOOMってなに?」状態だったが
あれよあれよという間に一気に世の中のスタンダードに。
広くアンテナを張り、最先端の良いものを常に探し続ける。
世の中に先駆けて取り入れる。これも、バンザンの社風の一つです。
コロナ禍、新時代に突入
2020年、新型コロナウイルスの流行により、
世界中の人々の生活が制限されました。
外出自粛や学校の休校など影響もあり、
オンライン教育が一気に注目されるように。
バンザンへの問い合わせも急増。社員たちは慣れない
テレワークに戸惑いつつ対応に追われました。
大変な状況だが、機を逃してはいけないとTVCMも開始。
会員数は300%の伸び率で増加しました。
しかし、今までの教育をただオンラインに切り替えるような
単純なことをやりたいわけじゃない。
オンラインにしかできないサービスを開発したい。
教育格差を吹き飛ばすという大きなミッションもある。
そのために、最先端でいちばんいいものをつくること、
誰もやってやっていないことに挑戦すること。
これからも、バンザンの挑戦は続きます。